『ミッドサマー』は本当に癒やしの物語なのか?
話題の映画『ミッドサマー』を見てきた。Twitterでの盛り上がりに比べるといまいち自分としては乗れなかった映画だった。特にピンポイントにダメなところがあったので、そこを中心に諸々記していきたい。
何が面白くなかったのか。まずは「次はこうなるだろうな」と予測させる作りである。ホルガを訪れて「メイクイーンを選ぶ」と言われて時点で「ダニーがメイクイーンになる」と想像はつくし、村の風習で年齢を季節に例えるシーンで72歳以降について言及しなかった後に出てきた老人たちが自死を選ぶ。ここで死に損なってハンマーで顔面砕かれる爺さんがビョルン・アンドレセンというのがもうびっくりするぐらいわかりやすい。わかりやすいと言えばヒロインのダニーとともに行動する男たちがえらい目にあうのはホラーのお約束だが、そこにはちょっとしたサプライズはあった。これについては後述する。
想像がつく展開に加え、147分という上映時間も冗長。冒頭、妹が両親を巻き添えに自殺するまでに何分かけているのか。それからも全体的に間延びした物語展開である。映像の美しさという力技で間延びしたシーンを見せてしまうという評価はできるが、演出は全体的にしょっぱい。ホルガへ向かう途中に反転するカメラとかも鼻白むし、合間合間に挟まるスローモーションもわかりやすい。生々しいのはドラッグ食ってヒロインが見る幻覚ぐらいであり、ご経験がおありで? という気分になった。その割に一つ大変わかりづらいシーンがあった。公式のネタバレサイト見てようやくわかったのだが、ジョシュが殺害されたときに出てきた謎の存在である。既に殺されたマークの皮を被っていた男に殺害された、というのは流石にあのシーンだけじゃわからん。ディレクターズカットではおそらくその辺も描かれるのだろう。
そもそもの問題として「これホラー映画違う!」というのもあるのだが、それについては監督も元々そう言っていたらしく、俺としても「じゃあしょうがないな」と思うしそこは割と評価には影響しない。では何の映画か、と言われるとカルトの映画である。「彼氏にも救ってもらえなかった一人の不幸な女性がカルトに囚われるまで」の映画だ。ペイガニズムと表現する人もいるが、それとは異なるように思う。多神教や土着の宗教など、キリスト教から見た異教であるペイガニズムや、それらの思想を現代に蘇らせようとしたネオペイガニズムとも違う。
何故カルトと思ったのか? は劇中でダニーが経験する出来事がモロに洗脳だからだ。特にクライマックスは大変わかりやすい。薬物を摂取させ、激しい運動を行わせる。その中で「言葉を使わなくても意思が通じる」という喜びを体験した後、彼氏の裏切りというショッキングな風景を見たダニーは泣き叫ぶのだが、周りにいる女達はその感情に同調するように一緒に泣き叫ぶ。薬物→疲労→精神的な上下→同調という流れはあまりにもお約束だ。実際やるなら薬なんかなくてもいい。疲労から精神的に落として上げてみたいな流れは会社の新人研修にもよくあることだ。最終日にみんなで抱き合って泣いてる新人研修のようなものだ。そう考えると宗教的設備の作りが安っぽいのも納得は行く。そこはカルトとしては重要な要素じゃないのでお金も手間もかけなくていい。もっともらしく見えて信者を騙せればそれでいいのだ。疑問を持つ奴がいたら気持ちよくなれるハッパ入りのお茶があるし、最悪夏至祭で一緒に燃やせばいい。
とまあそんなことを考えながら見ていたので「セラピーです」と言われると「それが奴らの手口なんですよ」と言わざるを得なかったのだ。
ただ、これを地方の奇習に巻き込まれてひどい目に合う若者たちの映画、と捉えると「セラピーだ」という意見もわかる。そうすると「地方の奇習に同調することで救われる女性の話」になるし、彼女を疎んじていた男性達がひどい目に合う因果応報の映画となるのだ。ダニーが女王として祝福される裏側でクリスチャンは村の女に誘われて彼女とセックスすることになるのだが、そのセックスシーンは男性としてはかなりおぞましいものだ。横たわる女を他の女達が取り囲み、謎の詠唱を唱え続ける。喘ぎ声を上げ高まっていくとそれに合わせて詠唱も高まっていく。女の手を取る他の女もいれば、クリスチャンの腰に手を添える女もいる。プラスの体験をしているダニーに引き換え、こちらは激烈にマイナスの体験である。これは一種の集団レイプなのではと思わされるほどだ。そして女に必要とされていたのが自分ではなく子種だけだと悟り、クリスチャンは全裸で外へ飛び出し走り回った挙げ句、他の仲間がどうなったかを知るのである。
悲鳴を上げて逃げ回るのは女性が多いホラー映画は男性が女性を性的に消費しているのでは? という指摘はごもっともである。だって『ラストサマー』でおっぱいぷるんぷるん振り回しながらキャアキャア悲鳴を上げて逃げ惑うジェニファー・ラブ・ヒューイットは最高に可愛いしエッチだ。それを快く思わない人がチンチンを抑えながら逃げ惑うクリスチャンを見て一種の癒やしとするのはわかる。ここまで書いてきた「こういうのが癒やしなんだろう?」という解釈もまた、それは違うのだと言われるかもしれないが、理解できないものを理解できないなりに解釈したものなので間違いだらけなのはご理解いただきたい。
だが「カルトに取り込まれてもなおそれは彼女の現実よりまし」「敢えて騙されるのも一つの幸せ」というのはどうにも同意しかねる。「つらいの、わかって」という人に「それはカルトの手口なのでそのようなことで幸せを得るべきではない」というのは正論であってもその人を救いはしない、というのは承知の上である。
こまでカルトに取り込まれた女性の話として語ってきたが、それが監督の解釈と一致しているかは不明である。あくまでもこれは俺が「そう見た」という話なので。監督の解釈といえば最後にダニーが浮かべた笑みについて色々な解釈をTwitterでみたが、海外の公式にアップされている脚本集に監督がご丁寧に正解を書いてくれている。
http://a24awards.com/film/midsommar/Midsommar_script.pdf
She has surrendered to a joy known only by the insane. She has lost herself completely, and she is finally free. It is horrible and it is beautiful.
わかりやすい映画、と冒頭に書いたがここまで親切な映画そうそうない。最後の謎めいた笑顔の秘密は! なんと監督が脚本にト書きで書いてあります!
こんな形で「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」案件をリアルに見ることができたという意味では、ミッドサマーは貴重な体験だったかも知れない。ただし、アリ・アスターの映画をこれ以上見る気はしなくなった。