宇佐見りん「推し、燃ゆ」を推す

 しばらく前からネットで見るようになった「極大感情」とか「クソデカ感情」という表現がどうにも苦手だった。「語彙力がない」という名目での内輪での遊びならともかく、出版社の人間や作家がそれをやり始めると、たとえその遊びに乗っかっているのだとしても「お前らの仕事はなんだ」という気分になっていたからだ。プロにはその豊富な表現力をもって好きなものがどれくらい素晴らしいか、その感情は何なのかについて語ってほしい。

 そう思っていたところに現れたのが、今回『文藝』の2020年秋季号に掲載されていた宇佐見りんの「推し、燃ゆ」である。主人公は16歳の女性。男性アイドルを追いかけていて、そのアイドルについて語るためのブログを運営している。追いかけ方にも色々あるが主人公は「出演したメディアを追いかけまくる」タイプで、具体的にはラジオに出た推しの喋りをブログで書き起こしたりしている。いるいるこういう人。そんな主人公が推しを「推し」だと認識した瞬間の描写がすごい。Twitter辺りだと「語彙力~!」とか「全人類〇〇くんの舞台を見て……」というテンプレでごまかしてしまいそうなその衝撃を、2ページにわたってきっちりと書き上げていく。この緻密な描写で既にこの子がどれくらい推しにドハマりしているかがわかろうというものだ。

 筆者の言葉を尽くしたかのように描かれるこの緻密な描写は、推しに対する思い入れにだけ適用されるわけではない。主人公が抱えている生きづらさ、というよりは学習障害的なものについてもきっちりと描かれていく。幼いころ姉と一緒にお風呂に入ってて自分だけ1から100まで数えられない、とか例示の仕方が具体的なのだ。

 ただ、そんな生きづらさを抱える主人公だが「人生つらいから推しに逃げて現実逃避している」ようには見えないし、主人公は逃避しているつもりは毛頭ない。作中で
「逃避でも依存でもない、推しは私の背骨だ」
と語っている通りである。人間が生きていくために背骨に逃避するか? 背骨に依存するか? でも背骨がなければまっすぐ立てないし歩けないのだ。ただ、背骨だってまっすぐ背筋を伸ばして歩くには力が必要だ。そのために彼女はそんな障害を抱えながらも必死でバイトしてCDを買い込んで推しに投資する。そんなバイト生活もつらいしんどいではなく「推しのための行為」であり、ブログを更新するのも「推しのための行為」である。自分が生きるために背骨を補強する。そんな行為だ。そして、推しの尊さとは関係なく彼女のキッツい人生は続いていく。母親はキレるし姉はそんな母親にビビってるし単身赴任の父親はたまに帰ってきたと思ったら味方になってくれるでもない。家を追い出され死んだ祖母の家で一人暮らしをしながら、どうしても片付けられない汚い部屋の中で推しを追いかけていく行為。それが尊いものとして描かれるわけでもなく、醜悪なものとして描かれるわけでもない。そのニュートラルさが素晴らしい。

 そんな彼女の物語がどこに帰着するか、あえてネタバレはしないのでよろしければ読んでいただきたい。「それでも、生きていかざるを得ない」という『踊るダメ人間』の最後のフレーズを思い出させるその結末を見た後、もう一度最初から読みたくなるはずだから。

 強いて言うならブログの文章が女子高生としては綺麗すぎませんか、というぐらい綺麗な文章であるところが気になったのだが、小説書いてるのが20歳の女性という時点でそのイチャモンもどこかへ消えていくのだった。