『ファイアーエムブレム風花雪月』をクリアした

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ファイアーエムブレム風花雪月』帝国エンドを迎えた。エーデルガルトとS支援エンドを迎えてラブラブである。

一言でいうとメガテンのカオスルート

「神を討ち世界は人が動かすべきだ」という建前と「自分や兄弟姉妹がひどい目にあった原因を取り除きたい」という本音が交錯する辺りがすごくそれっぽい。ただロウルート的な神を討滅しただけでは問題は解決せず、なんだかよくわからない悪の軍団「闇に蠢く者」が別に存在している。そいつらとの話がきっちりしないのはすっきりしない。俺たちの戦いはこれからだみたいな話になっちゃってるんですけど。特に闇に蠢く者は主人公にとって父親の仇でもあるので、その辺りでカタルシスを感じさせてくれない展開になるのですごくもやもやする。「あいつらは目的のために利用できるから! 師もそれでOKよね!」と、主人公の感情を無視して話が進んでいるように思えた。ここ、俺が何かを読み飛ばしているのだったら指摘してほしい。この辺りは「その全貌が知りたい」というよりは「ベレスの父親の敵と未だにつるんでることについて、エーデルガルトから釈明を聞きたい」というところが強い。直接実行犯のクロニエはソロンに殺され、そのソロンは封印から出てきたベレスにあっさり倒されてしまったので、敵は討ったのでスッキリという気分にはなれないのである。真の敵はまだ生きてるし、エーデルガルトはそいつらとつるみながら「いつか倒すから いつか倒すから」としか言ってないような気がして。

ストーリーの描写が短くないか?

 物語の展開が全体的に駆け足感ある。エーデルガルトの味方をするかどうかについて、その場で殺すかかばうかという極端な選択肢が発生するのだが「さあ殺そうすぐ殺そう」みたいなレア様に対して、落ち着いてちょっと話し合いましょうよ、みたいなノリで「かばう」を選んだら突然レア様が「あなたも失敗作だったのですね」とか言い出してドラゴンに変身したときには何事かと思った。しかもドラゴン1枚絵。このドラゴンの絵、後々再利用されるのでなんだか手抜き感がすごい。ドラゴンへの変貌後、なんであんなことになっているのかはエーデルガルトが色々説明してくれるのだが詰め込み感がすごかった。父親の仇周りも展開がとても急。仇であるクロニエをようやく追い詰めたところで別の敵・ソロンが登場し、クロニエを生贄にしてベレスを謎の空間に閉じ込めてしまう。謎の空間内で脳内にいたのじゃロリがすべてを思い出し、自分と融合すればここから出られるというので融合。出てきてソロンを倒す。気になるのはこの辺りぐらいなのだが、もうちょっとこうなんとかならんかと思わされた部分ではあった。クロードを倒す辺りとか倒した後生かすか殺すかみたいな選択肢は面白いのに……。

Twitter特有の大喜利評価

 ストーリーが駆け足なのはキャラクター同士の描写に力を入れている部分もあると思うのだが、こちらは一週目、初のFEということもあってシステムを把握するのに必死でキャラクターの関係を把握しきれていない部分がある。お茶会同じ相手と複数回出来るときがあるとか第二部入ってから気づいたしな。そんなわけで、第二部に入ってから他学級の生徒と戦うときに悲壮感があまりない。

 風花雪月が出た当時こんな騒ぎになっていたのを思い出したが、これが大げさどころの騒ぎではなく「何をどうやったら道徳がどうのという話に……?」とすら思えてしまう。「元々級友だった人間たちが殺し合う」というよりは「一触即発の状況にあった人間たちの中で一人が策謀を巡らせていた」という話なので道徳もなにもない。これを道徳がないというのなら三国志の登場人物は道徳がない連中ばっかりである。物語中の思考規範と現実の思考規範をうまく区別できない人がこういう思考に陥るのだろうかと考え、メギドでも似たような感想を抱いたのを思い出した。

諸々の原因・エーデルガルト

 このゲームをプレイしたい、switchがほしいと思うようになった最大の要素である。さぞかしラブラブしたカップルになるのであろうと思っていたし、後日談の描写も実際そんな感じであった。が、クリア後の印象としては「なんかめっちゃ向こうに惚れられてるけどこっちとしてはそうでもない」という感じである。色々背負い込んで悲壮な決意で「それでもこの世界のために戦うしかないんだ! 人々を解放するんだ!」と言う子が「しんどいつらいなぐさめて」と寄りかかってくる。重い。その重いキャラに対する反応が大変淡白なのである主人公。そこに関係性の非対称さを感じてしまい、うーん、となっている。先にも書いたが駆け足な選択肢部分で「まあまあちょっと話聞いてみましょうよ」ぐらいの気持ちだったのであんな展開になるとは思わなかったのだ。エーデルガルトさん、あそこで師が自分のことを選んでくれたというのがかなりアイデンティティになっている気がする。何気なく言った言葉が人の人生を左右するゲーム風花雪月。また、第一部で色々とやってきたことについても周りの連中を騙していたわけだが、そこについても特に釈明がない。人望があってそれらの言動が許されてる、というほどにエーデルガルトのキャラクターが掘り下げられている印象はないため、やはりもやもやしたものが拭えない。そこでみんなに頭下げるキャラじゃねえよな、というのはわかるんだが、それ故にベレスとエーデルガルトの間に相互理解に欠ける部分があると思うので「エデレス~!」って素直に喜べないのが現状である。エーデルガルトはベレスがいないとダメなのだが、多分ベレスはエーデルガルトがいなくても困らない。では何故一緒にいるのかと問われると「お願い行かないで」ってすがりつかれたから側にいるように見えて。

ゲームシステムについて

 ここまで色々と細かいことを書いてきたが、ゲーム自体は大変おもしろい。周回前提のせいか難易度が低く、FE初の自分としても大変楽しめた。キャラクター自体が嫌味のある作りになっていないのはすごい。敵側に多少アレなキャラが出てきたらしばらくしたら死ぬかすぐ死ぬ。例外はヒューベルトの外伝ぐらいだろうか。闇に蠢く者にいいようにコキ使われる話なのだが、後から仕返ししてカタルシスを感じさせる話になるのかと思ったらその辺りは「俺達の戦いはこれからだ」になってしまったのは先にも書いたとおり。育成システムについては上位クラス、最上位クラスを踏まえて最初から目標を定めておかないとえらいことになる、というのは一週目だとなかなか把握できなかった。おかげで騎兵2名が最上位クラスに到達できないまま終わってしまったのがちと残念。それでもクリアできると言えばできるのだが。自分自信の育成が他者をスカウトする条件になる件についても同様で、意識的にスカウトできたのはリシテアぐらいだった。また、自分で意図しない人間関係が戦闘を経て出来上がっていく部分は大変おもしろい。キャラクター周りのテキスト量がメチャメチャ多いので、「メインストーリーよりキャラの交流を楽しんでね」という作りなのはわからなくもない。実際キャラクターに人気が出るのはよく分かる。交流を深める程に、そしてキャラクター同士の交流が深まるほどに「実はこういう過去がありまして」みたいな話がポロポロ出てきてキャラに深みが出来ていくのは大変良い作りだと思う。

 2周目はもちろんプレイする予定なのだが、無難に青獅子で始めるべきか周囲を見ていると評判のいい金鹿をプレイするかが悩ましい。煤闇はなんか難易度が高そうなのが別の意味で悩みどころ。

 

『ミッドサマー』は本当に癒やしの物語なのか?

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 話題の映画『ミッドサマー』を見てきた。Twitterでの盛り上がりに比べるといまいち自分としては乗れなかった映画だった。特にピンポイントにダメなところがあったので、そこを中心に諸々記していきたい。

 何が面白くなかったのか。まずは「次はこうなるだろうな」と予測させる作りである。ホルガを訪れて「メイクイーンを選ぶ」と言われて時点で「ダニーがメイクイーンになる」と想像はつくし、村の風習で年齢を季節に例えるシーンで72歳以降について言及しなかった後に出てきた老人たちが自死を選ぶ。ここで死に損なってハンマーで顔面砕かれる爺さんがビョルン・アンドレセンというのがもうびっくりするぐらいわかりやすい。わかりやすいと言えばヒロインのダニーとともに行動する男たちがえらい目にあうのはホラーのお約束だが、そこにはちょっとしたサプライズはあった。これについては後述する。

 想像がつく展開に加え、147分という上映時間も冗長。冒頭、妹が両親を巻き添えに自殺するまでに何分かけているのか。それからも全体的に間延びした物語展開である。映像の美しさという力技で間延びしたシーンを見せてしまうという評価はできるが、演出は全体的にしょっぱい。ホルガへ向かう途中に反転するカメラとかも鼻白むし、合間合間に挟まるスローモーションもわかりやすい。生々しいのはドラッグ食ってヒロインが見る幻覚ぐらいであり、ご経験がおありで? という気分になった。その割に一つ大変わかりづらいシーンがあった。公式のネタバレサイト見てようやくわかったのだが、ジョシュが殺害されたときに出てきた謎の存在である。既に殺されたマークの皮を被っていた男に殺害された、というのは流石にあのシーンだけじゃわからん。ディレクターズカットではおそらくその辺も描かれるのだろう。

 そもそもの問題として「これホラー映画違う!」というのもあるのだが、それについては監督も元々そう言っていたらしく、俺としても「じゃあしょうがないな」と思うしそこは割と評価には影響しない。では何の映画か、と言われるとカルトの映画である。「彼氏にも救ってもらえなかった一人の不幸な女性がカルトに囚われるまで」の映画だ。ペイガニズムと表現する人もいるが、それとは異なるように思う。多神教や土着の宗教など、キリスト教から見た異教であるペイガニズムや、それらの思想を現代に蘇らせようとしたネオペイガニズムとも違う。

 何故カルトと思ったのか? は劇中でダニーが経験する出来事がモロに洗脳だからだ。特にクライマックスは大変わかりやすい。薬物を摂取させ、激しい運動を行わせる。その中で「言葉を使わなくても意思が通じる」という喜びを体験した後、彼氏の裏切りというショッキングな風景を見たダニーは泣き叫ぶのだが、周りにいる女達はその感情に同調するように一緒に泣き叫ぶ。薬物→疲労→精神的な上下→同調という流れはあまりにもお約束だ。実際やるなら薬なんかなくてもいい。疲労から精神的に落として上げてみたいな流れは会社の新人研修にもよくあることだ。最終日にみんなで抱き合って泣いてる新人研修のようなものだ。そう考えると宗教的設備の作りが安っぽいのも納得は行く。そこはカルトとしては重要な要素じゃないのでお金も手間もかけなくていい。もっともらしく見えて信者を騙せればそれでいいのだ。疑問を持つ奴がいたら気持ちよくなれるハッパ入りのお茶があるし、最悪夏至祭で一緒に燃やせばいい。

 とまあそんなことを考えながら見ていたので「セラピーです」と言われると「それが奴らの手口なんですよ」と言わざるを得なかったのだ。

 ただ、これを地方の奇習に巻き込まれてひどい目に合う若者たちの映画、と捉えると「セラピーだ」という意見もわかる。そうすると「地方の奇習に同調することで救われる女性の話」になるし、彼女を疎んじていた男性達がひどい目に合う因果応報の映画となるのだ。ダニーが女王として祝福される裏側でクリスチャンは村の女に誘われて彼女とセックスすることになるのだが、そのセックスシーンは男性としてはかなりおぞましいものだ。横たわる女を他の女達が取り囲み、謎の詠唱を唱え続ける。喘ぎ声を上げ高まっていくとそれに合わせて詠唱も高まっていく。女の手を取る他の女もいれば、クリスチャンの腰に手を添える女もいる。プラスの体験をしているダニーに引き換え、こちらは激烈にマイナスの体験である。これは一種の集団レイプなのではと思わされるほどだ。そして女に必要とされていたのが自分ではなく子種だけだと悟り、クリスチャンは全裸で外へ飛び出し走り回った挙げ句、他の仲間がどうなったかを知るのである。

 悲鳴を上げて逃げ回るのは女性が多いホラー映画は男性が女性を性的に消費しているのでは? という指摘はごもっともである。だって『ラストサマー』でおっぱいぷるんぷるん振り回しながらキャアキャア悲鳴を上げて逃げ惑うジェニファー・ラブ・ヒューイットは最高に可愛いしエッチだ。それを快く思わない人がチンチンを抑えながら逃げ惑うクリスチャンを見て一種の癒やしとするのはわかる。ここまで書いてきた「こういうのが癒やしなんだろう?」という解釈もまた、それは違うのだと言われるかもしれないが、理解できないものを理解できないなりに解釈したものなので間違いだらけなのはご理解いただきたい。

 だが「カルトに取り込まれてもなおそれは彼女の現実よりまし」「敢えて騙されるのも一つの幸せ」というのはどうにも同意しかねる。「つらいの、わかって」という人に「それはカルトの手口なのでそのようなことで幸せを得るべきではない」というのは正論であってもその人を救いはしない、というのは承知の上である。

 こまでカルトに取り込まれた女性の話として語ってきたが、それが監督の解釈と一致しているかは不明である。あくまでもこれは俺が「そう見た」という話なので。監督の解釈といえば最後にダニーが浮かべた笑みについて色々な解釈をTwitterでみたが、海外の公式にアップされている脚本集に監督がご丁寧に正解を書いてくれている。

http://a24awards.com/film/midsommar/Midsommar_script.pdf

 She has surrendered to a joy known only by the insane. She has lost herself completely, and she is finally free. It is horrible and it is beautiful.

 わかりやすい映画、と冒頭に書いたがここまで親切な映画そうそうない。最後の謎めいた笑顔の秘密は! なんと監督が脚本にト書きで書いてあります!

 こんな形で「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」案件をリアルに見ることができたという意味では、ミッドサマーは貴重な体験だったかも知れない。ただし、アリ・アスターの映画をこれ以上見る気はしなくなった。

霊宝システムの残念さが強調されたイベント『カカオの森の黒い犬』

 続けて『カカオの森の黒い犬』のイベントシステムについて。

 今回からイベント霊宝による攻撃力やHPの上昇が取り入れられた。過去は周回してポイントを稼いでそれを突っ込めばよかっただけなのだが、今回はそうもいかなくなった。

 問題は霊宝のUIがとんでもなくクソなことである。イベント画面から強化画面へ移動してメギドを選び、霊宝の枠を選んで「作る」ボタンを押さないと霊宝作成は開始できない。つけ外しも面倒くさいので「このステージではこのメギドを強化して、別のステージでは別のメギドを強化して」という操作が非常にやりにくい。霊宝セットという機能は「今つけている霊宝を外して別の霊宝と入れ替えたい」というときには役立つが、そのセットを他のメギドに転用できない。他のメギドに渡したいときに霊宝セットごと渡せるならともかく、霊宝セットはメギドに紐付いているため逆に霊宝セットを削除しないといけないというのはなかなか頭のおかしい実装だと思う。

 こんな実装から、霊宝は「進化のための贈り物」の上位版だと思っていた。最近は専用霊宝というものもでてきているので、つけ外しはしないものという方向性に進化するものだと思っていた。そこで今回のイベント装備である。

 ただし、今回のイベント霊宝はチョコレートなので「一旦贈り物として渡したチョコレートを取り上げて他人に渡すのか? 渡す分作るのが普通だ」というのもわかる。わかるよ。ただ、それはあくまでもフレーバーとして同意できるだけで、ゲームシステムとしてそれを実装したのはアホ極まりない。素材のドロップもめっちゃ渋いのでそうそうたくさんイベント霊宝を作る気になれない。どんどん作れと言うならどんどん素材を落として欲しい。それか複数装備を前提にしないか、だ。

 だが、霊宝装備を前提として実装された高難易度イベント戦闘自体は非常に面白い。特に「女性には大ダメージを与え、男性には状態異常を与え、状態異常の特効持ち。ついでに男性からの攻撃は8割減衰する」という敵の設計は素晴らしいと思わされた。それだけに、この霊宝のクソUIと素材クソドロップ率必要なイベントにしてしまったのが大変残念である。

 こういうイベントを実施したのは、霊宝を使っている人が少ないのが原因だと思う。ただ、霊宝自体がエンドコンテンツみたいなものなのでそこまでのプレイを行っているユーザーがまだ少ないだけではないだろうか。なのに無理やり霊宝使うプレイをねじ込まれては逆効果になってしまいそうだ。

 これで思い出したのが、FGOのコマンドコードである。アレも実装されて以来使ってる人が少なそうなシステムであり、それを回避するためか本編ストーリーに「あるコマンドコードを使っていると確実に勝てる」という敵を実装したことがある。だが、それ以降メインストーリーやイベントで同様の仕掛けがなかったところを見ると、強制的に使わせる仕様にしても使うユーザーはそんなに増えなかったのではないだろうか。

 イベント特効装備アイテムを装備させるのならオーブでいいと思うが、オーブがどういう存在かは設定されている。なので、そこにチョコレートのオーブを用意するわけにはいかなかったのだろう。サタナキアがいたからチョコプラブナがでてきても良かったとは思うのだが、流石に今回のイベントには雰囲気が合わない。
 と、つらつらと不満を述べてみたが今回のシステムをここまで不満に思っている人がいるかが気がかりではある。Twitterを見てる限り同意見の人をあまり見受けなかったので……。個人的には今後やるならもうちょっとドロップを緩めるか、霊宝複数作成複数装備必須な方向はやめていただきたいところ。

スコルベノトへの評価に感じていた違和感がすっと溶けた話

 メギド72で開催中のイベント『カカオの森の黒い犬』に登場し、先月末のサバトで実装された新メギド、スコルベノトくん。男の娘というわかりやすい個性を持ちながらもそれだけでは済まないキャラクター性はさすがメギド72、と感心させられるものがあった。
 その感心させられた彼のパーソナリティを評するに当たり、現実に当てはめて思考する人がいたのが印象的であったとともに、それに違和感を感じていたのだ。
 戦いを嫌い常に戦闘に出ない彼が戦闘社会であるメギドラルで爪弾きにされたりするのは割と普通じゃないの? と思ってしまったのだ。また、そのパーソナリティから仲間の後ろに隠れ、挙げ句「さっき押したよね?」とか言われてしまう性格を前に、同情心はわかなかった。で、そんな事を考えているうちに見つけたのがこれである。

 あの世界に「ゴブリンを殺すことは悪ではないのか?」というものさしを持ち込むことに強烈な違和感を感じたのだ。それは『ゴブリンスレイヤー』世界の外のものさしであり、あの世界のものさしではない。「もし○○だったら」という思考実験にも限度というものがあろう。その「外の世界のものさし」という思想が、自分がスコルベノトくんの評価に対して感じていた違和感にピタリと当てはまったのである。気弱な性格を擁護するのはいい。だが、それを擁護するのに現実の「性格と職場が一致していないかわいそうな人」みたいな話をするのはどうなのか。この「ファンタジー世界に現実の倫理観や規範意識を持ってくる」という行為、メギドは意図的にそれをやっているようにも思える。アモンの生々しい虐待描写などはそれに近いのではないだろうか。それに、そんな意識がなければ魔獅子イベントのときに京アニの放火事件に触れたりはしないのではないか。そんな気がしてならないのである。なおこの傾向がそのような展開が好きなユーザーが多いからリアルと重ね合わせる方向へ舵を切ったのか、リアルと重ね合わせがちなユーザーが多いからお話をそういう方向に持っていってるのかは謎である。相互作用でそうなってる気がしなくもない。

協奏パから見るメギド72企業攻略サイト

 メギドで協奏パを使い始めた。リジェネバルバトスはいないのでアスラフィルをリーダーに運用し始めたのだが、バルバトスアンドロマリウスクロケルリジェネグシオンと集めたところでどうもパンチが足りない。指名でリジェネバルバトスをお迎えすべきかと考えたが、皆が揃ってムルムルがいいと言うのでムルムルをお迎え。しばらく運用してみてなるほどみんなが協奏強い強いと言うわけだと納得している。で、そのパーティを構成する際に攻略サイトを色々と巡り、GameWithやアルテマの攻略を見て思ったことを適当に。まずはGameWithのアスラフィル解説&協奏解説から。

 協奏のページも含めて「リジェネバルバトスをどう活用するか」というところに終始している感がある。アスラフィルのマスエフェクトでリーダーはフォトン容量+1にできることは書いてあるが、そこを活用したパーティ編成などの紹介はない。また、協奏ページにべバルとアバラムの記載がなく、情報が更新されていないように見える。

 一方、アルテマのアスラフィルと協奏解説はというと。

 こちらはリーダー運用を強く推している。こちらにもリジェネバルバトスリーダー+アスラフィルの編成はあるが、同時にアスラフィルリーダーワントップでの編成も掲載されており、いろいろな編成を紹介している良さを感じる。

 べバルとアバラムの説明は記載済み。また、競争状態のバフについても表形式になっていたり、リーダーを最速行動させるためにシェルドレイクの装備を推奨していたりとちょっとした気遣いが感じられる。オーブと言えばGameWithのアスラフィルページ、リーダーのバルバトスにカオスサムを積んでる理由がよくわからない。
 これらを見ていて、GameWithの諸々の紹介、どうも他も情報が古いのではないだろうかと気になって他も見てみた。

 バレットアーツのところにニスロクの記載がない。色々戦法を試して動画をUPしているのはいいと思うのだが、オリエンスのそれ、修正前のやつじゃないの?

 アルテマの方には当然ニスロクは記載されている。色々見た結果、少なくとも今後はいつもの情報Wikiアルテマをご贔屓にしようかな、と思った次第。情報Wikiは情報の蓄積力としてはトップなんだが、アルテマの「初心者向けのビジュアル化したわかりやすさ」も強みだなあと思ったので。GameWithも同じくビジュアル化してるんだがサイト構成がごちゃついてて分かりづらい。なお、最新章の難関ステージ69攻略についてもアルテマの方はパーティ構成に幅があり、フォトン破壊全体化などの戦略を紹介しているが、GameWithの方は「アンドレアルフスを連れて行こう!」とか「グラディエーター持っていったら3体同時に感電しましたラッキー」みたいな記事である。

 俺も感電が効くならとグラディエーター持っていったが3体同時に感電したことは1度もない。逆に言えばアルテマの記事は「フォラスとボーパルバニーはお持ちでいらっしゃる?」なところはあるんだけれども。メギドはそもそも戦闘に運ゲー要素があるので攻略は難しいとは思うが、それでも「攻略」を名乗るのならもうちょっとなんとかしていただきたいところではある。履歴書メーカーとか面白い企画は多いのでむしろ「メギド72ファンサイト」でよいのではなかろうか。

ライターは「公平」でなければいけないのか

 本題にあまり関係ないマクラでゲーキャスのトシさんには申し訳ないが、このツイートを見てとある別のつぶやきを思い出した。半月ほど前、ワーフリがバランス調整をやらかしたときのことである。何気なく「はあ3000石っすか」という気分で反応したツイートをもとに「メギドのときはあんなに騒いだのにサイゲのゲームだと詫び石を喜ぶのか」という人がいたのだ。その発言自体はもうどうでもいいのだが、そこから派生した別の方の反応に思うところがあった。

 公平にやらないと、と仰せなのでちょっと考えてみた。「2周年を目前にして『不具合』を1ヶ月放置し、かつその間に1回シナジーのあるキャラクターのガチャを挟んだゲーム」と「開始から1ヶ月も立たないうちに『バランス調整のため』と直前までピックアップしていたキャラ&それとシナジーのあるキャラを思いっきり下方修正したゲーム」を天秤にかけずに同じ強さで殴るのは果たして公平なのだろうか。個人的には「放置期間の長さ」と「不具合です」を押し通したほうにギルティーの天秤が傾いてしまう。さらに、俺自身がメギドとワーフリどっちに肩入れしているかと言うとメギドの方なので、更に前者に対して「しっかりしろよ!」とケツを叩きたくなるのだ。ワーフリについては開始時にちょっと触ったぐらいで継続プレイをしていないため、どんな下方修正が起こったかを調査して「なるほど」とうなずくことしか出来ない。その状態で『公平にやる』なんてことは無理だ。

さらに言えば、俺に「公平さ」という芸風が求められているかという話もある。ペナントレースの予想をするときに真面目に予想する野球評論家と「今年は阪神が絶対勝ちます」という阪神大好きな芸人がいるとすれば、俺は後者だと思っているし、後者でありたいと思っている。前者ばかりだと面白くないし、後者だけだとそもそも予想の意味がない。その辺りはバランスだ。誰かが前者をやってくれればいいし、誰もやらないのならその時に俺は真面目な予想を考えよう。少なくとも今はそういう「多様性」を与えられる存在でいられればと思う。

「こんなの俺の物語じゃない」と思わずつぶやいてしまったドラゴンクエスト ユア・ストーリー

 世間でも賛否が分かれるドラゴンクエスト ユア・ストーリー。ネタバレを知った上で「どれいっちょどの程度か見てみるか」と行ってみたのだが、その状態でもなガードをしきれない大ダメージを食らってしまうことになった。いや、きっつい。キツイ映画だった。

 自分にとって何が一番ダメージだったかと言うとやはりあのラスト10分のオチである。
「唐突に出てきた存在がセリフだけで話を進める」
「ご都合主義的に出てきたアイテムですべてを解決する」
「その展開に伏線が一切ない」
 俺はこういうストーリーが大変苦手なのだ。そんな苦手要素をギッシリ凝縮して詰め込まれたのでネタバレでこういうオチだと知っていても大ダメージを受けてしまった。なんせギャグ漫画日和のソードマスターヤマトばりの詰め込みっぷりである。
「実はこの世界は仮想空間なんだ! ゲームなんて無駄! 大人になれ!」
「うるせえ俺のゲーム体験は本物だ!」
「ところで俺はお前についてきたスライムだがあのウイルスを倒せるアンチウイルスを持ってるんだ! さあ!」
「うおおおおおお」
「ぐああああああ」
 ほんとにこんな話である。

 ゲームを否定する存在に対してゲームを肯定する反論、どっちも雑としか言いようがない。この意見を「ゲーマーへの歪んだ愛、おせっかい」と見る人もいれば、「ゲーマーをバカにしている」と見る人もいるが、個人的にはどちらでもどうでもいいかな、という感じではある。ゲーマーへの姿勢云々以前にこのぞんざいなオチを「どんでん返し」と言われても困る。

 実はVRでした、という展開ももう少し丁寧に描いていればもっと違っただろうに、とは思わされる。途中でフローラがやたらとクエストクエスト繰り返すのと、モンスターの消え方でなんとなく匂わせてはいるのだがもっとはっきり描いていい。NPCがウイルスの存在に気づいていたりするのも謎だし、ゲマは最後にミルドラース代わりにウイルスが降臨するのを知っていたのかが曖昧。何もかも骨子に対しての説明が足りない。

 説明が足りないと言えばビアンカとフローラのどちらを選ぶかという話も説明が足りない。ラスト近くのVRシーンで「今回はフローラを選ぶぞ」とつぶやいたため自己暗示プログラムが働いてしまったという展開があるのだが、それ入れる意味があったのだろうか。劇中でフローラがビアンカの思いに気づいて身を引くのだが、その際フローラは謎の占いババアに化けて主人公に本当の心がわかる、という薬を与える。その薬を飲んだ結果自己暗示プログラムが破れてしまい、ビアンカとくっつくことになる。プレイヤーの選択肢を超えてくるこの流れ、こいつらもウイルスの影響を受けているのかという気分になってくる。ここまでご丁寧にビアンカを選ぶように話を勧めておいて、冒頭でフローラとの出会いをわざわざSFC風のシーンで描いているのは失笑ものだ。そのシーン、PS2のリメイクで追加されたとこじゃねえか。

 ただ、クソみたいなオチとVRネタで放り込まれたメタな部分を除くと「色々雑にカットしたDQ映像作品」としてはそんなにクソ作品というわけではない。子供時代大部分カットしたせいでゲレゲレとの再会が唐突だったり、曲の使い方があまりにもぞんざいだったり、ブオーンを仲間にする超展開だったり、まものつかいと言われながらもゲレゲレとスラリンしか仲間がいなかったり、やっぱり子供時代省略したおかげでゴールドオーブの再入手が唐突だったり、娘がいなかったり、変なとこでFC風のフォントを使ってたりと欠点は上げられるが、ゲレゲレの背中に乗って見せる疾走感あふれる戦闘シーンや、様々なバリエーションで見せられる魔法はとても良い。ちなみに子供時代省略はVRアトラクションで「子供時代は飛ばす」と選択した結果である。

 そして何よりもよいのは吉田鋼太郎演じるゲマである。その台詞回しとケレン味あふれる怪演も良いが、CGで描かれたゲマのビジュアルが大変よろしい。ラスト近く、親子の剣に大ダメージを食らって上半身とちぎれた腕だけになるその姿は、デスタムーア第三形態を思わせて「お、なんかあるのかなこれ」と期待させてくれたものだ。……まあその後ウイルスが来るんだけど。

 ざっと書き散らしてみたがやっぱりあのオチさえなければもうちょっと評価は変わっていたと思う。 現在ネットを見ていると、否定派もいれば肯定派もいる。結局「ユアストーリー」というタイトル通り「これはあなたの物語なんです」と言われて「はい!」と喜べる人はこの映画をオススメしたい。ドラクエ知らないで行くとラスト10分の唐突さだけ見て「なんだこれ……」ってなることになると思うぞ。